伝えることについて
思うことがある。感じることがある。
ぼくはそれに対して伝えたい!と思うことが多い。これは「相手に伝わる」ところまでが欲望で、それによって他者の考え方が変革することまでは求めていない。むしろ自分の行いによって他者の考え方が変革すると突然に不安になる。
否、それは問題ではない。今回問題とするのは、「伝える技巧」や「伝え方」とどう向き合うかということである。
先日、友人と話していて、モノを書くとは何ぞやという話になった。ぼくはやはり「じ自分の好きを共有したい」「相手に伝えたい」と思うところにそのモチベーションがあるのだと思う。でも往々にして伝わらない。そこにたいしてもどかしさを感じる。
そうなるとなぜ伝わらないのか?と考えだす。内容が良くないのか、伝え方が良くないのか、、、その時点で、もうぼくは受け手の反応を考えてしまっている。この現象についてぼくは非常にもやもやしたものを感じる。
ぼくは純粋に「相手に伝えたい」と思う。しかしコミュニケーションであるから、伝えるためには相手のことをかんがえて、時にはこちらも内容を変えたり、表現を変えて原義のニュアンスを改変したりして受け手に寄り添わないといけない。「Aという内容を伝えたい」のに、「Aという内容を伝える」ためには内容や表現によってA'にしないといけないのである。このジレンマに答えが出せない。
ぼくが望むことは「相手にこの楽しさを『ありのまま』に共有してほしい」ということである。しかし「ありのまま」と「相手に共有できる」ことは同時にかなうものではない。この願望は今までの文脈によれば、矛盾した内容をはらむわけである。
無論どちらもあきらめるわけにはいかない。だいたい相手が理解できないのが悪い!と突き放せず、こちらが「折れる」形になることが多い。
まぁ、これは結局最終的には「手を加えることは伝えるためならば仕方ない」ということにはなる。このブログは推敲もなしにただだらだら書き連ねているけれども(だからこそ価値があると思っている)、最初に書いたことというのは、おそらく一番「自分の認識、受け取り」に近いものなのではないかと思ってはいる。修正というのは理性的な行為であるから、感情的な内容や「勢い」を殺してしまうような気もする。
でもじゃあ、「お前、人様に推敲なしで大事な文章世に出して伝わらないことでストレス貯め込んでいいのか?」と言われると弱い。やっぱり直すかなあ。
このことだっておそらく答えが出せない。原石の「価値」か、磨いてからの「価値」か。どちらを取るといいのだろう。