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ことばのおしいれ

現実とむきあえない現実

このブログを見ている人の多くは、わたしが商業施設大好き(特にそごう)ということはご理解いただけているのかもしれないけれど、改めていうと、わたしはそういう方向が好きでアンテナを張っていまして。

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それで、この記事というわけです。

とりわけ周辺では柏のそごうに対する反響が多い感じがします。閉鎖の是非を問うている問題ではなく、一企業の経営判断なのですから、そこは置いておいて。

わたしが直面したのは、「憧れや思い出といった非論理的なモノでは世の中を成り立たせることができない」という、どうしようもなくどうしようもない現実なのでした。

わたしはそういう感情的なものを結構軸にして生きてきているので、こういった現実が突きつけられるのは非常に心が痛みます。これは閉鎖に心が痛むというよりかは、感情的なものの否定が為されているようで心が痛むのです。

 

人間は理性と感情で動きます。人間が形作る社会は、そのまま理性的な側面と感情的な側面を持っているように思います。言い換えれば「論理的側面」か「非論理的側面」かとも言えそうです。

理性的な側面と感情的な側面は不可分であって、どちらも独立した体系で構成されるのが本来なんじゃないかと思います。例えば「論理的には間違っているけれど、気分としては悪くない」ようなことはあってもいいと思うんです。

でも、やっぱり現実としては感情的なものと理性的なものの間には地位の差があります。「気分としては悪くないけど、論理的に間違っているからあってはならない」という決定がなされます。論理的なことがよいとされている風潮はあるとは思います。

 

柏そごうその他店舗の閉鎖に関して「論理的にはわかる」けど「感情的には納得いかない」という印象を持っています。というか、ここ最近社会に対してはこういう感情ばっかり抱きます。このギャップがわたしに戸惑いとなにかしらの寂しさをもたらしている感じがあります。さらに言うと、論理的な決断は論理的ゆえに「重い」のです。論理的に間違いがなく、スキが無いからです。ある意味では余裕がないとも感じます。そういった方向性を是とする風潮に疲れも感じます。

ただ論理的な結論と感情的な結論を混同するとまたややっこしいことになるし、論理的なことそのものは全て間違っていると否定する気はありません。無論経営不振による閉鎖を思い出などを盾に反対するのはまた違うと思います。

ただ、自分はそういった論理的なことばかりを強いる世界では生きていけない。この「事件」はそういった現実をわたしに突きつけました。

とりあえずこの件によって、わたしは「感情的なことを感情的に表現する」ことが性に合ってるんだなという結論を得ました。

 

感情にコミットすることが最優先できるやさしい居場所を探していきたいと思います。ちょうどいまそういう時期ですしね。

 

おしまい