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ことばのおしいれ

あしたの生き方を変えるためには

池袋シネマ・ロサで行われている「劇場版たまゆらー卒業写真ー」の4部作一気見上映に行ってきた。4時間強、かつ毎話ごとに泣きまくり…非常に体力を使う上映である…

控えめに言って最高!優勝!なのだが、それだけでは語りつくせないメッセージが私には届けられたような気がする。そのメッセージとは何だったのだろう。

もう上映開始から時間が経っているのでネタバレ全開でお送りしていこうと思う。今後見る可能性があり、それをわくわくどきどき楽しみにされている諸兄は以下あまりご覧にならない方がいいかもしれない。

 

ストーリーは主人公の沢渡楓(ふうちゃんとかぽってとか呼ばれているのである)と彼女を取り巻く竹原や横須賀の人々との温かい交流の話であって、とにかく彼女が高校一年生の春に竹原に来るところから話が始まる。時間が過ぎゆき、劇場版では彼女らの最後の一年間、つまり高校三年生を描いた作品となる。

高校三年生といえば、もちろん、話題の中心となっていくのは進路の話題である。ぽっての同級である3人の女の子はそれぞれ、進む先に迷い、悩みながら答えを出していく。最初から明確な好きがあって、それを追いかけていいと決意できた者、収拾がつかない多くの興味を長い人生の中で少しずつ消化していけばいいと感じた者、、いろいろな答えを出していく中で、一人、塙かおる(主人公にはかおちゃんと呼ばれている)はある意味で一番色のないキャラであっただけに、自分は他人の期待に応えてばかりで、自分で何がしたいのかわからないと苦悩する場面が重点的に描かれていた。

結局彼女は、自分の目指す道を、半ば運命的な形で(ある意味ではフィクションなタイミングで)出会い、決意を固めていくことになるのだが、彼女が苦悩する過程で彼女の姉と自室で言葉を交わすシーンが特に惹かれるものがあった。

自分は他人にスイッチを押してもらわないと何もできないのだと漏らす彼女に対して、姉は「かおるちゃんは分かってないなあ」と言いながら、彼女の得意なこと、性質を再定義していく。それはかおちゃん本人にとっては意外な視点であり、その後の一歩の大きな動機の一つとなっていく。

これは一種のブレイクスルーで、いままで自分が考えていた「自分ができること」による選択肢の検討から、他人によって新しい「自分ができること」に気づき、新たな選択肢が生まれ、それによるあしたの生き方の選択であったように思う。

 

ここでわたしの話に移るが、ここ最近、自分には何ができるのだろう?何が得意なのだろう?ということに苦悩することが多い。就職活動という一種の「思考停止状態」から解放されたことで、一気に自分が逃げ続けていたことが押し寄せてきている。

やりたいことはたくさんあったはずなのだが、いつの間にかあきらめたり時期を逃したりしていつの間にか身動きが取れなくなっている自分がいる。

このまま生きていってもおそらく大して支障はないと思うけれど、わたしは人生に埋もれていくそういう生き方はしたくない。なにか、私にできないことを何かを為したい。そう思う。

でも身動きが取れない、自分が持ちうるソース、力、選択肢が気づいたら無くなってしまっていた。どうしてこうなってしまったのだろうかと考えると、おそらく「インプット」がいつの間にかストップしてしまっていたことによる(アウトプットも同時に重要なのだがこの話はまた別の機会に)。

読書量の減少、大学の講義を真面目に受けてない(?)など、思いつくところはいくつかあるが、一番大きいのは「気づいたらいつの間にか度を過ぎた頑固、あまのじゃくになっていた」ということだと思う。

いつの間にか本が私に響かなくなったし、他人が言うこともなんだか遠くなってしまった。自分の心をガツンとうったり、他人が言うことを信じてみようという努力が無くなってしまっている。

 

あしたの生き方を変えるためには、わたしに関していえば、他人に向けてもっと「ひらく」こと。ここに収束するのだ。

実はこのことは仲のいい友人にたびたび指摘されてきたことなのであるが、今回の「たまゆら」を通じてはっきりし、腑に落ちるところがあった。「ひらく」ことは、自分のアイデンティティを疑い続けることだから、自分にとってはきっと大変なことだと思うけれど、ブレイクスルー、少し今の状況から一つ抜け出したいわたしには、必要なことなのだ。

 

たまゆら」はそんなことをわたしにメッセージとして教えてくれた。

そういう意味では、あしたをいきる希望を少し貰うことができた。途中でいっぱい泣いたけど、最後は泣かない。いい映画でした。

 

【余談】わたしはどうもアニメーションによって翻訳されれば、いろんな事象や考え方、視点を吸収しやすいみたいです。これは理由も何もなく特性のような気もしますが、理由が気になるところです。どうしてなのだろう…?

 

 

伝えることについて

思うことがある。感じることがある。

 

ぼくはそれに対して伝えたい!と思うことが多い。これは「相手に伝わる」ところまでが欲望で、それによって他者の考え方が変革することまでは求めていない。むしろ自分の行いによって他者の考え方が変革すると突然に不安になる。

否、それは問題ではない。今回問題とするのは、「伝える技巧」や「伝え方」とどう向き合うかということである。

先日、友人と話していて、モノを書くとは何ぞやという話になった。ぼくはやはり「じ自分の好きを共有したい」「相手に伝えたい」と思うところにそのモチベーションがあるのだと思う。でも往々にして伝わらない。そこにたいしてもどかしさを感じる。

そうなるとなぜ伝わらないのか?と考えだす。内容が良くないのか、伝え方が良くないのか、、、その時点で、もうぼくは受け手の反応を考えてしまっている。この現象についてぼくは非常にもやもやしたものを感じる。

ぼくは純粋に「相手に伝えたい」と思う。しかしコミュニケーションであるから、伝えるためには相手のことをかんがえて、時にはこちらも内容を変えたり、表現を変えて原義のニュアンスを改変したりして受け手に寄り添わないといけない。「Aという内容を伝えたい」のに、「Aという内容を伝える」ためには内容や表現によってA'にしないといけないのである。このジレンマに答えが出せない。

ぼくが望むことは「相手にこの楽しさを『ありのまま』に共有してほしい」ということである。しかし「ありのまま」と「相手に共有できる」ことは同時にかなうものではない。この願望は今までの文脈によれば、矛盾した内容をはらむわけである。

無論どちらもあきらめるわけにはいかない。だいたい相手が理解できないのが悪い!と突き放せず、こちらが「折れる」形になることが多い。

まぁ、これは結局最終的には「手を加えることは伝えるためならば仕方ない」ということにはなる。このブログは推敲もなしにただだらだら書き連ねているけれども(だからこそ価値があると思っている)、最初に書いたことというのは、おそらく一番「自分の認識、受け取り」に近いものなのではないかと思ってはいる。修正というのは理性的な行為であるから、感情的な内容や「勢い」を殺してしまうような気もする。

でもじゃあ、「お前、人様に推敲なしで大事な文章世に出して伝わらないことでストレス貯め込んでいいのか?」と言われると弱い。やっぱり直すかなあ。

このことだっておそらく答えが出せない。原石の「価値」か、磨いてからの「価値」か。どちらを取るといいのだろう。

 

現実とむきあえない現実

このブログを見ている人の多くは、わたしが商業施設大好き(特にそごう)ということはご理解いただけているのかもしれないけれど、改めていうと、わたしはそういう方向が好きでアンテナを張っていまして。

headlines.yahoo.co.jp

それで、この記事というわけです。

とりわけ周辺では柏のそごうに対する反響が多い感じがします。閉鎖の是非を問うている問題ではなく、一企業の経営判断なのですから、そこは置いておいて。

わたしが直面したのは、「憧れや思い出といった非論理的なモノでは世の中を成り立たせることができない」という、どうしようもなくどうしようもない現実なのでした。

わたしはそういう感情的なものを結構軸にして生きてきているので、こういった現実が突きつけられるのは非常に心が痛みます。これは閉鎖に心が痛むというよりかは、感情的なものの否定が為されているようで心が痛むのです。

 

人間は理性と感情で動きます。人間が形作る社会は、そのまま理性的な側面と感情的な側面を持っているように思います。言い換えれば「論理的側面」か「非論理的側面」かとも言えそうです。

理性的な側面と感情的な側面は不可分であって、どちらも独立した体系で構成されるのが本来なんじゃないかと思います。例えば「論理的には間違っているけれど、気分としては悪くない」ようなことはあってもいいと思うんです。

でも、やっぱり現実としては感情的なものと理性的なものの間には地位の差があります。「気分としては悪くないけど、論理的に間違っているからあってはならない」という決定がなされます。論理的なことがよいとされている風潮はあるとは思います。

 

柏そごうその他店舗の閉鎖に関して「論理的にはわかる」けど「感情的には納得いかない」という印象を持っています。というか、ここ最近社会に対してはこういう感情ばっかり抱きます。このギャップがわたしに戸惑いとなにかしらの寂しさをもたらしている感じがあります。さらに言うと、論理的な決断は論理的ゆえに「重い」のです。論理的に間違いがなく、スキが無いからです。ある意味では余裕がないとも感じます。そういった方向性を是とする風潮に疲れも感じます。

ただ論理的な結論と感情的な結論を混同するとまたややっこしいことになるし、論理的なことそのものは全て間違っていると否定する気はありません。無論経営不振による閉鎖を思い出などを盾に反対するのはまた違うと思います。

ただ、自分はそういった論理的なことばかりを強いる世界では生きていけない。この「事件」はそういった現実をわたしに突きつけました。

とりあえずこの件によって、わたしは「感情的なことを感情的に表現する」ことが性に合ってるんだなという結論を得ました。

 

感情にコミットすることが最優先できるやさしい居場所を探していきたいと思います。ちょうどいまそういう時期ですしね。

 

おしまい

 

まずは、現状を肯定する

自分は悩みの少ない人間だ。迷いは多々ある(なんか夏目せんせいの小説みたいだ)…先日もなんの地図を買うかで1週間も同じ本屋に通い詰めてはコーナーの前で思案するほど決められない人である…が、それは本題ではない。

 

わたしの人生の話。なんで悩みが少ないかというと、自分が置かれた現状に多少の程度の差はあるけれど、おおむね不満が無いからだと思うのです。幸せは「おおむね」でいいんです。100%幸せを目指すときっとつらくなると思います。

余談が過ぎます…さて、その「おおむね」の幸せな日々というのはどのようにして形作られたのか、と自分に問い直してみると、それはおそらく「状況肯定力」のようなものがあるからだと、超ざっくり言えば「ポジティブシンキング」ですね(自分的にはニュアンスが違うと思っていますが)。

自分は大学に入るときに浪人を経験しました。たった一年だけなので偉そうなことは言えないのですが、これも挫折といえば挫折の経験です。自分は現役時代の受験で全敗しての浪人でしたから、さらに笑えない。ついでにいうと、現役時代に受かるつもりのAO入試微分の定義が答えられず(ナント当時は理系でした)あえなく予定外の受験勉強を強いられ、理系に限界を感じ、高三の9月に比較的「マシ」(得意ではない)な文系に志望変更した結果の惨敗…というなさけない経緯もあったりします。

そんなどうしようもない状況。がんばったり、どうにかするチャンスはいくらでもあったのに、結局浪人したのです。周りは、やはりどうしようもないアホだと、多かれ少なかれそんな感想や心配を抱いていたと思います。

でも当の本人は、じぶんのやりたいことができない!というストレスは感じつつも、この状況を否定したり、無駄だと思ったりはしていなかったように思います。むしろ「浪人生活というある種特殊な体験ができる」と感じていましたし、浪人時代に出会った30代の受験生に会い、予備校で一番の友達になったのも、浪人しないと体験できないことでした。そんなことを思いながら浪人生活を送っていました。悪く言うと「能天気」だったんですね。

でも、結構大事なことだと思います。「物事を深刻にとらえすぎるな」というと余計なお世話ですが、ツラい、キツい状況に陥ったらとりあえず今の状況から比較的よかったと思えることを探して、それを大事にする。ということはできるんじゃないかなーと思ったりするのです。大変な状況に陥ると冷静さを失って、とにかく抜け出さなきゃとパニックになり、心の余裕も失ってしまうものだけど、そういった状況の突破には、「余裕」が必要です。

キツい、ツラいと思い続けるのは、ただ「キツい、ツラい状況そのもの」が厳然としてあることが再認識されるだけのように思います。この気持ちを否定するわけじゃないですが、その状況に陥ってからある程度時間が経ってきたら、それだけじゃないのではないかと思ってみるといいかもしれません。あわよくばそういった現状の中からためになりそうなこと、面白いことなど、肯定的な要素を発見し、「現状を肯定する」ことができたら儲けもの。ここで注意したいのが、「現状を肯定すること」は「現状に納得すること」ではないのかもしれませんということ。キツい状況からの脱出をあきらめ、その現状をまるっと受け入れることではないのです。

「現状を肯定する」というのは、ある意味「その場しのぎ」なのです。キツい状況下において、自分の居場所をそれなりに快適(?)にしてから、さらに自分の追い求める理想や希望への確実な踏み台とするための前準備という感じです。

自分は無意識的にそういった作業をキツい場面においてしてきたのだと思います。これはこれでまた、なにくそ!といういわゆるハングリー精神的なものをおおきく削いでしまう副作用があるようには思われるのですが、、、でもだがしかし、ツラいとへこみ続けて、その状況を脱却できなくなるよりは全然いいのかなと思ったりもします。

 

他人に応用できる考えじゃないと思ってはいますが(自分のことながら、こういったことを考えられるのは一種の個性なのではないかと思っている)、、今さらになってこんなこと書く意味があったのだろうかと思えてきましたが、まぁ書こうと思ったからには、何かしらの意味があるのでしょうとポジティブシンキング的サムシングでもって、最後にしたいと思います。

新日常系雑感(雑感にしては長い)

先日twitterかぜのみな (@kazemina_) | Twitter)で、アニメーションにおけるいわゆる「新日常系」という潮流について考える機会があった。議論と言えるほどの精度はなかったが、いずれにせよ(個人的に)それなりに盛り上がり、結果的にまとまった量のツイートがフォロワー各位のTLを汚すことに至った。

汚すというのは言い過ぎかもしれないが、いずれにしても散発的なTwitterよりも、改めてブログにまとめなおした方が良いのではないかと感じたので、このように書き記しておく次第である。さらに言えば、昨日Twitterに投下した後やその間に考えつつも投稿しなかった項目や考え方やその修正がいくつかあるので、それらも追加して、これを「完成稿」としたいと考えている。

 

そもそも「新日常系」ってなんだ?

そもそも「新日常系」とはなんなのであろうか。個人的な雑感であるが、これはまだ「定義されていない」ように感じられる。Twitterでの盛り上がりの時にもその各位の「捉え方」のズレが解釈のずれに繋がっているような気がしていた。

dic.nicovideo.jp

「新日常系」の初出は、「ニコニコ大百科」に拠れば(拠って良いのか信頼性の観点において微妙ではあるがそれしかないのである。ご了承願いたい)、2014年に放映されたアニメ「結城友奈は勇者である」(以下「ゆゆゆ」と略称)の制作局であるMBSの前田プロデューサーに対する、まんたんウェブのインタビュー記事であるという。

 

mantan-web.jp

うどんの話みたいになっているがそれだけではない。

これによれば「視聴者の皆さんに、序盤は日常描写を楽しんでいただけるように、そして後に起こる、ある展開によって中盤以降は今まで見てきた日常がよりかけがえのないものに感じていただけるように作られています。」とある。

さらに「日常系作品は「日常っていいよね」と共感しながら見る方も多いかと思いますが、「結城友奈は勇者である」は「日常っていいよね」と痛感しながら見る作品になっているのでは?と思っています。」とも。

 

これが一番、「新日常系」の定義に近いものなのではないかと考えられる。ゆゆゆの内容と照らし、その内容を加えつつ整理すると

・序盤は日常描写、中盤以降はその日常が崩壊する(→非日常への展開)

・結果的に日常の大切さ、かけがえのなさに立ち返る構成になっている

くらいのことが言えそうである。これでは定義に弱い感じがとてもするが…以降詳細な定義が学界から為されるんじゃないんですか?(適当)

 

「日常」のニュアンスについて

「日常」とはどういう意味なのであろうか。これは辞書をあたるというより、この話題において起こりうる「日常」の捉え方の混乱を明らかにしておく方が重要で、必要なことである感じがする。それはこの定義の方向性によってこれもまた、議論の意味する方向性が大きく変わってしまうのである。

前置きが長くなったが、明らかにしておきたいことは、「日常」は「現実に即している」という文脈で使われるのか、「平和である」という文脈で使われるのか、という混乱である。

これはどのスケールで語るのかということでもある。当然アニメーションで描かれる限り、「現実に即して」いても、それはフィクションである。あるいはたとえばモンスターが裏庭をあたりまえのように闊歩し、村を襲撃することがままあるという設定だった場合、視聴者にとっては「現実に即して」おらず「非日常」を感じるが、それではその村に住んでいる「住人」はそれを「非日常」と感じるのだろうか?という違いである。

どちらが正解か?という問題ではないが、この視点の混乱を自覚したうえで、話を進めていった方が気がしている。

 

「新日常系」の発生は3.11によるものか?

前置きがとーーーっても長くなってしまったが、Twitterで盛り上がった最初の主題がこれである。なるほど。。(太古の昔のような気がする)

この質問に対して、単刀直入に言えば「半分イエス」ではあると感じている。半分とはなにか。それはつまり、新日常系そのものは震災前からあったが、その流行は3.11、つまり東日本大震災によって決定的になったということである。 

ameblo.jp

以上のブログに示唆に富む指摘を見ることができる。これは「新日常系」については直接言及していないものの、ポスト3.11のアニメ―ションが向かう傾向について以下のように指摘している(こういった指摘はほかでも散見される気がする)。

 

正義とは果たして存在するのか? 人間は果たして肯定されるべきなのか? という自己否定、自分自身や自分を取り巻くあらゆるものを疑うことが、これらに通底する主題である。(中略)主人公や人類それ自体が、予め虐げられるべきもの/狩られるべきもの/差別されるべきもの/蔑まれるべきものであるといったハンディキャップ、言い換えれば「呪い」を背負っている

 

このブログでは直接言及していないが、人類の絶対性を揺るがし、あたりまえであった日常を不確定なものにしてしまった3.11が、そもそもの人間存在や自然法則といった絶対的なモノへの懐疑を生み出し、以上のような潮流に展開されたということであるとわたしは考える。これはまた、定義にあった「日常のかけがえなさを振り返る」という観点にも合致するものである。

しかしやはり疑問が残る。これならば「新日常系」ではなくこのブログが指摘するような「非日常系」がひたすら展開されればいいのである。なぜ一種余計な「平和」描写を挿入し、「新日常系」へと展開しないといけなくなったのだろうか。

 

受け手の変容という視点

ここからは完全な自論になる。根拠も減ったくれもないがお付き合いいただければと思う。

ここでなぜ平和である「日常」とのっぴきならない「非日常」の対比を強調して描かなければならなくなったのかを考える。

セカイ系やそれ以前の時代は、「フィクション」は「フィクション」であり、「あり得ない」ことであった(それが魅力的なものか否は別として)。女子高生の機嫌次第で世界が崩壊するかもしれない…といったのは、さすがにそれはあり得ないだろ~という感想に至るということである。

ここで注意しておきたいのは、「セカイ系」はフィクションとノンフィクションの境界を次第に曖昧にしてきているという傾向である。フィクションがリアルに接近してきたのである。どちらが先かはなんともいえないが、視聴者が現実とリアルを同一視しつつあるという傾向も、震災前からあったような気がする。

しかし、前述したように東日本大震災が起きたことで、一種「あり得ない」ことが、さまざまな側面でリアルとして人々の前に立ち現れてしまった。つまり「ノンフィクション」が「フィクション」化し、視聴者があり得ないと感じる世界の幅が大きく縮小してしまったのである。人々はあまりに「アンリアル」な「現実」に直面して、すべての「あり得ない」事象を「あり得ない」と言いきれなくなってしまったのである。

結果として起きたことは、まず震災以前からの流れであった、フィクションのリアル化が一気に加速したのである。つまりフィクションというものに対する違和感の低下とそれに起因する一種の「魅力」の低下である。「あり得ない」ことへの感受性が一気に低下したのである。言い方を変えれば、「あり得ない」に対して違和感を抱きにくくなっている、あるいはノンフィクションとフィクションの境界が溶けてしまい、フィクションに対する「特別性」がさらになくなり、魅力が低下してしまったとも言えるかもしれない。

そこで勢いにのったのが「新日常系」であった。「一般的な2016年の現実に即した日常」を見せておいて、「あり得ない非日常」をまるでスイッチを切り替えるがごとくドメスティックに見せることで、「日常世界」と「非日常世界」を厳然として置き、フィクションな作品世界に「ノンフィクション的な世界」と「フィクション的な世界」を分かりやすく見せ、その境界を改めてはっきりと引くことで、その魅力を維持せんとするのである。

「新日常系」は震災前からあったと考えている。つまり、震災の申し子という側面と同時に、ゼロ年代の申し子、ゼロ年代のためのムーブメントだと思うのだ。

セカイ系」と「新日常系」における非日常世界の描き方のロジックはあまり変わっていないように思われる。新日常系でも、きみぼく、あるいは少数の人間が世界構造を変革せんとする流れは見られるのだ。大きく違うのはアニメーションを「フィクション」たらしめる、あるいは魅力的にさせるための描き方の違いであると考えるのだ。それは3.11に限らず、この時代が要請したものであるし、そういう意味では「新日常系」は「セカイ系」の延長とも考えている。

 

これが、半分イエスと言った、ある意味で先般の質問にノーと答える理由である。

最後に少しだけ-アニメーションはどこに行くのだろう

ガルパン劇場版が流行った。それはある意味では「あり得ない」の違和感が減ってきているのも一因となっている感じもする。「ガルパンはいいぞ」という簡単な言葉の意味するところは、突き詰めるとどこかオカシイフィクションな世界観や設定や状況への傾斜への照れを隠すカモフラージュなのかもしれないと感じるのである。

「新日常系」の意味するところは、厳然とした「日常」があってこその「あり得ない世界」の魅力である。日常が「あり得ない世界」に近づいていくと実はアニメーションはドキュメンタリーになり、面白くなくなってしまうのかもしれない。

こんな時代、アニメーションはどこに行くのだろう。キャラがかわいいアニメも確かに良いが、できることなら、あり得ない世界化する「日常」と闘い、「日常」を取り戻してくれるアニメの登場を期待するのだけど…(最後は疲れて言っていることの意味が分からない)

 

 

以上すべての言動の責任は管理人にありますが、あくまでの管理人の素人考えの私見を目的なく整理し、ネットの海に垂れ流すものであり、他の考えや思想を排斥する目的のあるものではありません。ご意見があれば指摘していただいて構わないのですが、以上の理由により、場合によってはそのご指摘に誠意的にお答えできない場合があります。その場合は「こいつ逃げやがったな!」と思いつつその辺でお許しいただければと思います。

どうしよう

こういう時。

 

ブログは更新したいけど書くことが無い時。

 

なんじゃこれは???????

 

不思議な気分である。

 

ブログを更新することとブログを書くことってイコールじゃないんだなあというどうでもいいことが分かりました。

 

仕方ないのでねつ造しましょう。話題を。

いやいや、ねつ造は言い過ぎだ。無理やり話すことを探しましょう。

 

すごい、この構図。ぼくはブログを「書かされている」ぞ。主客が逆転している。これがデジタルの乗っ取りというやつか。

 

あ、そうですね。今年の抱負を話しましょうか(無理やり)。

 

去年はお休みの1年でしたから、今年はまた攻めたいですね。形にしたいですね。なにか。

 

この一年で主張すること、発表することがすっかり怖くなってしまったので、リハビリして、がんばりましょうね。

 

以上!(なんか満足した)

 

 

 

 

 

 

「の」の考察

近未来な言い回しのムーブメントが来ている。実に個人的に。

 

どんなムーブメントかと言うと、いろんな単語を2つに分割して間に「の」を押しこむムーブメントである。

 

意味が分からないかもしれないが、そのメソッドにしたがって上の文章を書きなおすとこういった勢いになる。

 

「どんなムーブのメントかと言うと、いろんな単の語を2つに分の割して間に「の」を押し込むムーブのメントである。」

 

だいたい理解されたかと思う。ただし個人的には上の「の」挿入はやりすぎの感もある。何事もさじ加減である。

 

溝の口話法」と名付ける。溝の口。じつに正統派の「溝の口話法」である。語感の置きといい文字のバランスといい。ツボにぐっとくる。ただし彼は地名だ。

 

上でもさじ加減の話をしたが、どうにもこの話法には未定義の箇所も多く、実にあいまいでやんわりして、形のない、ソフトで、流動的で、そして消えそうで、個人的で、主観的な概念である(以上西尾維新メソッドである)。どうにも名詞だから入れる!動詞はいれない!と言った感じでもない。コミュニケーションは水モノ。一度きり、ライヴなのである。

 

まあいろいろウザくなったが、以下の言い回しでここ数日のリアルの会話における「の」挿入の力加減を再現してみたので体験してほしい。

 

この話法は実にユースのフルである。これをさらっと会話の中にぶち込んでやるだけで、実におもしろい。なぜかおもしろい。クスッと笑ってしまう。日常会話の清涼剤である。

さらにいえば、言葉の意味を実に深く感じることができるのである。単語は「単の語」に分割され、なるほど、「単の語」なのだという理解が一層深まる。

割と傾向としてあるのは、カタカナ語や固有名詞に挿入してやるとなんというかイイ感じになる。アウトのソーシング、石油のファンのヒータ、エアのコン、ららのぽーと、原の宿、ビックのボーイ、ダンのベル、ごちのうさ。

 

ららぽーとのビッグのボーイでハンバーグではなくアウトのソーシングしてしまって座席を汚し土下の座していたらごちのうさリアタイ視聴のがした訴の訟。」

 

アウトソーシングとか言って皿を関係ないところにソースかけてる画像ほんとすき)

 

画像さがしたんですがうまくひっかかりませんでしたね…

いずれにしても、「の」を挿入することで新しいニュアンスが見えてくる現象も面白い。ダンのベル。サブのウェイ…サブのウェイかぁ。

 

とにかく(書くのに飽きた)、言葉に新しい解釈と面白さを吹き込んでくれる「溝の口話法」。おもしろいので皆さんもぜひ日常の生活にぶち込んでみてくだされ。

 

 

追記

この面白さ、ルー大柴さんのルー語に通じるものある気がする。

あとさいきん一部のネット業界で見られる「パソ・コン」話法。これも近い気がする。