kotoba:stocks

ことばのおしいれ

新日常系雑感(雑感にしては長い)

先日twitterかぜのみな (@kazemina_) | Twitter)で、アニメーションにおけるいわゆる「新日常系」という潮流について考える機会があった。議論と言えるほどの精度はなかったが、いずれにせよ(個人的に)それなりに盛り上がり、結果的にまとまった量のツイートがフォロワー各位のTLを汚すことに至った。

汚すというのは言い過ぎかもしれないが、いずれにしても散発的なTwitterよりも、改めてブログにまとめなおした方が良いのではないかと感じたので、このように書き記しておく次第である。さらに言えば、昨日Twitterに投下した後やその間に考えつつも投稿しなかった項目や考え方やその修正がいくつかあるので、それらも追加して、これを「完成稿」としたいと考えている。

 

そもそも「新日常系」ってなんだ?

そもそも「新日常系」とはなんなのであろうか。個人的な雑感であるが、これはまだ「定義されていない」ように感じられる。Twitterでの盛り上がりの時にもその各位の「捉え方」のズレが解釈のずれに繋がっているような気がしていた。

dic.nicovideo.jp

「新日常系」の初出は、「ニコニコ大百科」に拠れば(拠って良いのか信頼性の観点において微妙ではあるがそれしかないのである。ご了承願いたい)、2014年に放映されたアニメ「結城友奈は勇者である」(以下「ゆゆゆ」と略称)の制作局であるMBSの前田プロデューサーに対する、まんたんウェブのインタビュー記事であるという。

 

mantan-web.jp

うどんの話みたいになっているがそれだけではない。

これによれば「視聴者の皆さんに、序盤は日常描写を楽しんでいただけるように、そして後に起こる、ある展開によって中盤以降は今まで見てきた日常がよりかけがえのないものに感じていただけるように作られています。」とある。

さらに「日常系作品は「日常っていいよね」と共感しながら見る方も多いかと思いますが、「結城友奈は勇者である」は「日常っていいよね」と痛感しながら見る作品になっているのでは?と思っています。」とも。

 

これが一番、「新日常系」の定義に近いものなのではないかと考えられる。ゆゆゆの内容と照らし、その内容を加えつつ整理すると

・序盤は日常描写、中盤以降はその日常が崩壊する(→非日常への展開)

・結果的に日常の大切さ、かけがえのなさに立ち返る構成になっている

くらいのことが言えそうである。これでは定義に弱い感じがとてもするが…以降詳細な定義が学界から為されるんじゃないんですか?(適当)

 

「日常」のニュアンスについて

「日常」とはどういう意味なのであろうか。これは辞書をあたるというより、この話題において起こりうる「日常」の捉え方の混乱を明らかにしておく方が重要で、必要なことである感じがする。それはこの定義の方向性によってこれもまた、議論の意味する方向性が大きく変わってしまうのである。

前置きが長くなったが、明らかにしておきたいことは、「日常」は「現実に即している」という文脈で使われるのか、「平和である」という文脈で使われるのか、という混乱である。

これはどのスケールで語るのかということでもある。当然アニメーションで描かれる限り、「現実に即して」いても、それはフィクションである。あるいはたとえばモンスターが裏庭をあたりまえのように闊歩し、村を襲撃することがままあるという設定だった場合、視聴者にとっては「現実に即して」おらず「非日常」を感じるが、それではその村に住んでいる「住人」はそれを「非日常」と感じるのだろうか?という違いである。

どちらが正解か?という問題ではないが、この視点の混乱を自覚したうえで、話を進めていった方が気がしている。

 

「新日常系」の発生は3.11によるものか?

前置きがとーーーっても長くなってしまったが、Twitterで盛り上がった最初の主題がこれである。なるほど。。(太古の昔のような気がする)

この質問に対して、単刀直入に言えば「半分イエス」ではあると感じている。半分とはなにか。それはつまり、新日常系そのものは震災前からあったが、その流行は3.11、つまり東日本大震災によって決定的になったということである。 

ameblo.jp

以上のブログに示唆に富む指摘を見ることができる。これは「新日常系」については直接言及していないものの、ポスト3.11のアニメ―ションが向かう傾向について以下のように指摘している(こういった指摘はほかでも散見される気がする)。

 

正義とは果たして存在するのか? 人間は果たして肯定されるべきなのか? という自己否定、自分自身や自分を取り巻くあらゆるものを疑うことが、これらに通底する主題である。(中略)主人公や人類それ自体が、予め虐げられるべきもの/狩られるべきもの/差別されるべきもの/蔑まれるべきものであるといったハンディキャップ、言い換えれば「呪い」を背負っている

 

このブログでは直接言及していないが、人類の絶対性を揺るがし、あたりまえであった日常を不確定なものにしてしまった3.11が、そもそもの人間存在や自然法則といった絶対的なモノへの懐疑を生み出し、以上のような潮流に展開されたということであるとわたしは考える。これはまた、定義にあった「日常のかけがえなさを振り返る」という観点にも合致するものである。

しかしやはり疑問が残る。これならば「新日常系」ではなくこのブログが指摘するような「非日常系」がひたすら展開されればいいのである。なぜ一種余計な「平和」描写を挿入し、「新日常系」へと展開しないといけなくなったのだろうか。

 

受け手の変容という視点

ここからは完全な自論になる。根拠も減ったくれもないがお付き合いいただければと思う。

ここでなぜ平和である「日常」とのっぴきならない「非日常」の対比を強調して描かなければならなくなったのかを考える。

セカイ系やそれ以前の時代は、「フィクション」は「フィクション」であり、「あり得ない」ことであった(それが魅力的なものか否は別として)。女子高生の機嫌次第で世界が崩壊するかもしれない…といったのは、さすがにそれはあり得ないだろ~という感想に至るということである。

ここで注意しておきたいのは、「セカイ系」はフィクションとノンフィクションの境界を次第に曖昧にしてきているという傾向である。フィクションがリアルに接近してきたのである。どちらが先かはなんともいえないが、視聴者が現実とリアルを同一視しつつあるという傾向も、震災前からあったような気がする。

しかし、前述したように東日本大震災が起きたことで、一種「あり得ない」ことが、さまざまな側面でリアルとして人々の前に立ち現れてしまった。つまり「ノンフィクション」が「フィクション」化し、視聴者があり得ないと感じる世界の幅が大きく縮小してしまったのである。人々はあまりに「アンリアル」な「現実」に直面して、すべての「あり得ない」事象を「あり得ない」と言いきれなくなってしまったのである。

結果として起きたことは、まず震災以前からの流れであった、フィクションのリアル化が一気に加速したのである。つまりフィクションというものに対する違和感の低下とそれに起因する一種の「魅力」の低下である。「あり得ない」ことへの感受性が一気に低下したのである。言い方を変えれば、「あり得ない」に対して違和感を抱きにくくなっている、あるいはノンフィクションとフィクションの境界が溶けてしまい、フィクションに対する「特別性」がさらになくなり、魅力が低下してしまったとも言えるかもしれない。

そこで勢いにのったのが「新日常系」であった。「一般的な2016年の現実に即した日常」を見せておいて、「あり得ない非日常」をまるでスイッチを切り替えるがごとくドメスティックに見せることで、「日常世界」と「非日常世界」を厳然として置き、フィクションな作品世界に「ノンフィクション的な世界」と「フィクション的な世界」を分かりやすく見せ、その境界を改めてはっきりと引くことで、その魅力を維持せんとするのである。

「新日常系」は震災前からあったと考えている。つまり、震災の申し子という側面と同時に、ゼロ年代の申し子、ゼロ年代のためのムーブメントだと思うのだ。

セカイ系」と「新日常系」における非日常世界の描き方のロジックはあまり変わっていないように思われる。新日常系でも、きみぼく、あるいは少数の人間が世界構造を変革せんとする流れは見られるのだ。大きく違うのはアニメーションを「フィクション」たらしめる、あるいは魅力的にさせるための描き方の違いであると考えるのだ。それは3.11に限らず、この時代が要請したものであるし、そういう意味では「新日常系」は「セカイ系」の延長とも考えている。

 

これが、半分イエスと言った、ある意味で先般の質問にノーと答える理由である。

最後に少しだけ-アニメーションはどこに行くのだろう

ガルパン劇場版が流行った。それはある意味では「あり得ない」の違和感が減ってきているのも一因となっている感じもする。「ガルパンはいいぞ」という簡単な言葉の意味するところは、突き詰めるとどこかオカシイフィクションな世界観や設定や状況への傾斜への照れを隠すカモフラージュなのかもしれないと感じるのである。

「新日常系」の意味するところは、厳然とした「日常」があってこその「あり得ない世界」の魅力である。日常が「あり得ない世界」に近づいていくと実はアニメーションはドキュメンタリーになり、面白くなくなってしまうのかもしれない。

こんな時代、アニメーションはどこに行くのだろう。キャラがかわいいアニメも確かに良いが、できることなら、あり得ない世界化する「日常」と闘い、「日常」を取り戻してくれるアニメの登場を期待するのだけど…(最後は疲れて言っていることの意味が分からない)

 

 

以上すべての言動の責任は管理人にありますが、あくまでの管理人の素人考えの私見を目的なく整理し、ネットの海に垂れ流すものであり、他の考えや思想を排斥する目的のあるものではありません。ご意見があれば指摘していただいて構わないのですが、以上の理由により、場合によってはそのご指摘に誠意的にお答えできない場合があります。その場合は「こいつ逃げやがったな!」と思いつつその辺でお許しいただければと思います。

どうしよう

こういう時。

 

ブログは更新したいけど書くことが無い時。

 

なんじゃこれは???????

 

不思議な気分である。

 

ブログを更新することとブログを書くことってイコールじゃないんだなあというどうでもいいことが分かりました。

 

仕方ないのでねつ造しましょう。話題を。

いやいや、ねつ造は言い過ぎだ。無理やり話すことを探しましょう。

 

すごい、この構図。ぼくはブログを「書かされている」ぞ。主客が逆転している。これがデジタルの乗っ取りというやつか。

 

あ、そうですね。今年の抱負を話しましょうか(無理やり)。

 

去年はお休みの1年でしたから、今年はまた攻めたいですね。形にしたいですね。なにか。

 

この一年で主張すること、発表することがすっかり怖くなってしまったので、リハビリして、がんばりましょうね。

 

以上!(なんか満足した)

 

 

 

 

 

 

「の」の考察

近未来な言い回しのムーブメントが来ている。実に個人的に。

 

どんなムーブメントかと言うと、いろんな単語を2つに分割して間に「の」を押しこむムーブメントである。

 

意味が分からないかもしれないが、そのメソッドにしたがって上の文章を書きなおすとこういった勢いになる。

 

「どんなムーブのメントかと言うと、いろんな単の語を2つに分の割して間に「の」を押し込むムーブのメントである。」

 

だいたい理解されたかと思う。ただし個人的には上の「の」挿入はやりすぎの感もある。何事もさじ加減である。

 

溝の口話法」と名付ける。溝の口。じつに正統派の「溝の口話法」である。語感の置きといい文字のバランスといい。ツボにぐっとくる。ただし彼は地名だ。

 

上でもさじ加減の話をしたが、どうにもこの話法には未定義の箇所も多く、実にあいまいでやんわりして、形のない、ソフトで、流動的で、そして消えそうで、個人的で、主観的な概念である(以上西尾維新メソッドである)。どうにも名詞だから入れる!動詞はいれない!と言った感じでもない。コミュニケーションは水モノ。一度きり、ライヴなのである。

 

まあいろいろウザくなったが、以下の言い回しでここ数日のリアルの会話における「の」挿入の力加減を再現してみたので体験してほしい。

 

この話法は実にユースのフルである。これをさらっと会話の中にぶち込んでやるだけで、実におもしろい。なぜかおもしろい。クスッと笑ってしまう。日常会話の清涼剤である。

さらにいえば、言葉の意味を実に深く感じることができるのである。単語は「単の語」に分割され、なるほど、「単の語」なのだという理解が一層深まる。

割と傾向としてあるのは、カタカナ語や固有名詞に挿入してやるとなんというかイイ感じになる。アウトのソーシング、石油のファンのヒータ、エアのコン、ららのぽーと、原の宿、ビックのボーイ、ダンのベル、ごちのうさ。

 

ららぽーとのビッグのボーイでハンバーグではなくアウトのソーシングしてしまって座席を汚し土下の座していたらごちのうさリアタイ視聴のがした訴の訟。」

 

アウトソーシングとか言って皿を関係ないところにソースかけてる画像ほんとすき)

 

画像さがしたんですがうまくひっかかりませんでしたね…

いずれにしても、「の」を挿入することで新しいニュアンスが見えてくる現象も面白い。ダンのベル。サブのウェイ…サブのウェイかぁ。

 

とにかく(書くのに飽きた)、言葉に新しい解釈と面白さを吹き込んでくれる「溝の口話法」。おもしろいので皆さんもぜひ日常の生活にぶち込んでみてくだされ。

 

 

追記

この面白さ、ルー大柴さんのルー語に通じるものある気がする。

あとさいきん一部のネット業界で見られる「パソ・コン」話法。これも近い気がする。

わけわけする

バイト先で仕事を抱えすぎたわたしは、社員指示で仕事を別のバイトに少し譲ることになった。

 

仕事を抱えすぎたといっても、やってくれ→はいはい、の流れで雪だるま式に抱え込んでいったというわけではない。

 

自分が持つあるいは関わるなら自分の気が済むまでやりたい。そういう有る意味で自己中な感情なものによるのだ。仕事が増えていくのは当然かもしれない。いうなれば「タスクの独り占め」だ。

 

仕事をわけわけするのは、他のやりたいこと(あくまでも強欲である)に手を付けるいい機会なのかもしれないけど、やはり仕事を教えて、他人にお任せするというのはどうも落ち着かない。

他人のやり方に気に食わなくなって勝手に直してしまいそうで、それだけはやってはならない(任せたと言っておいて小言を述べるのは冒涜である)のでどうにかこうにか押さえなければならない。

 

…言わんこっちゃない。こういう配慮とかが面倒臭いのだ。

 

究極的に共同作業が苦手だ。

 

一人の夜もいい。

しかくい青

オフの日は、午前中から、たたみの窓際に寝転がってベランダの奥に広がる青空をひたすら見ている

空に遮るものなどない。素晴らしき空よ…!

そのままわたしの貴重な全休は終わった。全休返せや。

別れ方のやりかた

最近終わるものが多い。

 

大学の近くのある書店。しばしば立ち寄ることがあった古書店である。

 

その書店が無くなるらしい。

どうも割引セールも行っているという噂と聞き、勇んでその書店へと同期とともに向かった。

 

お店の中はあまり見たことのないおばちゃんが座っていた。

鉄道ピクトリアルの京王特集を手に取って一緒に来ていた友人とぱらぱらめくっていると

 

「お客さん、遊びにいらしたのならあまり汚くしないで。」

 

人生ではじめて本屋さんで立ち読みを注意された。これは実に貴重な体験だ。しかしこんなことを言うお店だっただろうか。いやこればかりはどう考えてもわたしが悪いのだが。

 

いろいろと申し訳ない気分になったので、その京王特集を買った。

べつにいらないものだったわけではないし、多少財布のひもが固くなっていたとはいえ、迷った挙句買ったと思う。

しかし、どうしても自分の中で、免罪符として買ったのではという、うしろめたさが消えない。

わたしは気を紛らそうと「おやめになるんですね」と声をかけた。これもまた、軽い気持ちだったのだ。

おばちゃんが語りだした。

体力の限界が来ていたこと、その他いろいろ運営環境的に限界が来ていたこと(うまく聞き取れなかった)、2階にはまだ在庫がたくさん眠っており、それを掃くまでは営業を続けるようだということ、そしてそれは彼女にとっても想定外の量のようだということ(直接は言っていなかった)、彼女は実はもともと書店運営にはかかわっておらず、いまとなっては値付けはするけど専門的な知識が無いから相場に沿っているかわからないということ、あとは昔の話だ。夜行列車で帰る出張で上京した会社員のために夜遅くまで店を開けていたこと、お店中に人があふれた時代のこと、、おばちゃんはよどみなく語った。

20分くらい話を聞いていた気がする。わたしは焦った。

 

おばちゃんが一息ついたのを見計らって、また前通ったら来ますと言い残して、お店を後にした。連れの同期は「帝国海軍の威容」なんて本をいつの間にか買っていた。1000円…価格破壊、安すぎないか。

 

ただ部外者として無責任に本を買ってお金を落としたつもりになって終わるつもりだったのだ。わたしはじぶんの勝手さとあつかましさにむしょうに腹がたった。相手はもっと歴史があり、もっと大人で。あのおばちゃんにすべて見透かされていたのではないかという焦りが自分を支配した。

 

大学に戻って、わたしは知りうる同業趣味の友人にその古書店の存在を、閉店の事実を、教えうる限り教えている。

また前の道路を通り、彼女の前に顔を出せるか自信が無い。わたしの代わりになってもらう人探しの、これもまた、情けない行為なのだ。

 

いまこれ以上のことはできない。

 

わたしはいま、別れ方のやりかたに悩んでいる。

 

ふっきれるその日を待っている。

3次元超リアルあの花

遅れながらも、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」の実写ドラマを見た。

 

まどろっこしいから「実写あの花」とでも表記するけど、あまり期待していなかったその反動もあって思いもよらず見入ってしまった。

 

意味のないシーンで「心が叫びたがってるんだ」のヒロイン、成瀬順役の声優、水瀬いのりちゃんが出てきたのは笑ってしまったが、思ったより良くできていたように思う。

 

しかしながら、やはりアニメには敵わないなぁとも同時に感じた。

まず空や風景の広がりである。実写あの花では実際の秩父でロケが行われていて、印象的なシーンはアニメ版と揃えようとする配慮も感じられた。

でも、物足りない。

なんでだろう。

同じものを描いているはずなのにどうして美術背景はあそこまで高く深く自然を表現できるのか不思議だ。おまけにアニメは実写と違って2次元で3次元を表現する。そのハンデがあるはずなのになんでなんだろう。リアルを超えるハイパーリアルか。やはりリアルはクソだということだろうか。

 

ついで、めんまの設定について

アニメ版では外国人の母と日本人の父を持つハーフの女の子として描かれており、白髪であるが、実写あの花では当然そんな女の子を用意できるはずもなく、母娘ともども純然たる黒髪日本人に変更されている。

めんまの良さは、その適度に現実離れした「人形らしさ」特殊さに起因する一種の「神聖さ」にある気がしている。だからこそ彼らのトラウマになるし、心にひっかかり続けるのではないかと思っている。また白のワンピ―スこそ実写ドラマでも再現されたが、やはり黒髪の女の子が着ても雰囲気が違う。けど、せりふ回しや動き方はめんまに忠実だし浜辺美波ちゃんかわいい。

 

尺について

これはもうなんというかどうしようもないのだけど、やはり12話1クールでやる「想定」で組んだ内容であり、さらにそれで内容を刷り込まれた自分としては2時間は物足りなかった。ただし2時間でしっかり話はオチていて、どこかのシャー◇ットとは違う。

 

総括すると「実写版もこれはこれでアリだけどやっぱり原作は超えられないノネ」です。実際最後のシーン泣いてしもたし。そうだ、ぽっぽ役の高畑くんもすごい馴染んでたしすごいよかったです。

 

いろいろ言ったけど、これは感想であって、批判ではない。ということだけ言っておかないと面倒なことになりますので、これを読んだ皆さまはぜひ面倒なことにしないでください。